一度は願いが叶う墓
道の駅熊野 板屋九郎兵衛の里(いたやくろうべえ)は三重県熊野市にある道の駅である。九朗兵衛の墓は市の文化財の史跡に指定されています。
・行ってみた感想
凄くのどかな緑の山々に囲まれた道の駅板屋九郎兵衛の里は地元の住民たちがベンチでランチを食べていたり幼い子供たちが公園で遊んでいて、かなり穏やかな時間の流れる場所でした。
・板屋九郎兵衛とは?
板屋九郎兵衛は、本名を玉置九郎兵衛といい板屋村に生まれた、今から330年前に実在した人物です。
九郎兵衛は板屋の庄屋を務めており、親分肌で義理人情にも厚く、地域では大変人望があり、当時、たびたび発生した山や採草地の境界争いに仲介の労をとって事を納めたそうです。
この九郎兵衛が『お菊』という絶世の美女を嫁に迎え幾年か楽しい毎日を過ごしていたわけですが、九郎兵衛の勘違いで妻を殺してしまったことから、自らも生きたまま墓に入ることを決意します。村人に見送られながら入墓したと伝わっています。
九朗兵衛のお墓は現在も存在しその墓に触ると一度は必ず願いが叶うと言われています。今も板屋の人々によって守られています。
・感想
江戸時代の男の人って男尊女卑的な考え方がはびっこっているはずでした、しかし九郎兵衛は違いました。それにしてもどんな勘違い?とおもいますよね、
当時の村人に愛されそして330年も経った現代の私たちの願いも叶えてくれるなんとも素晴らしい人物なんでしょうか。
頑固一徹の由来となった人物
頑固一徹で何が悪い 稲葉一鉄
稲葉一鉄は美濃の土岐頼芸、続いて斎藤氏 織田氏 豊臣氏に仕えた武将です。
江戸幕府3代将軍 徳川家光の乳母である春日局の外祖父にあたります。
・出自 紹介
一鉄の祖父 稲葉通貞は伊予の国の名族である河野氏の一族だと伝わっています。
河野氏は地元の有力豪族の越智の氏の流れをくみます。
美濃国人の稲葉通則の6男として生まれた一鉄は幼少期に出家します。
しかし1525年の牧田の戦いにて。と5人の兄が全員戦死したため還俗します。
彼が指揮する戦はほとんど勝っていたらしく、一部では『無敗の武将』ともいわれていました。
・頑固一徹の由来は一鉄にあった
織田氏に仕えていたころの活躍はすさまじかったようで、石山本願寺戦で殿を務めきるなど負け戦でも、浅井朝倉連合軍との姉川の戦い徳川家康と戦況を決める大活躍
そして信長に「長の一字をあげるから長通と名乗ってみたら?」と言われますが、一鉄はこれを固辞してしまったのです。
その飲みの席いた武将たちも唖然としたでしょうね、あの信長がこれに怒り切腹を申し付けるなんてとこはさすがになくても主の言うことを固辞するこういうところが『頑固一徹』の由来になっています。
・感想
いきなり戦死とは言え兄と父が亡くなる、悲しすぎますね。
しかしこの経験が一鉄の原動力となったのでしょうか。
最近のご時世にもなぜかこういう頑固でまっすぐな男って賛否両論ありますよね
しかし自分の考えを思いどうりに相手が目上でも伝える。これって自分に自信がある裏付けでかっこいいと思います。
現代で減ってきているこの生き様をいまこそ再確認してみる。
意外と大事かもしれませんね。
秋田美人のルーツは?
秋田美人といえば、佐々木希さんや壇蜜さん、鳥居みゆきさん、などがあげられます。今回はそのルーツについて紹介していきます。
戦国時代から江戸時代の武将佐竹義信、父は『鬼義重』と呼ばれた佐竹義重です。
母は伊達晴宗の娘、つまり伊達政宗とは従兄弟になります。
この佐竹氏、本姓は源氏、清和源氏の一派河内源氏とする、平安時代からの由緒正しい名門武家です。
武田信玄ようする武田氏とは同族ということになります。
そんなお家柄にうまれた義宣は関ヶ原合戦の事情で常陸54万石から出羽20万石の減封を言い渡されます。
この時父の義重は常陸中の美女をお供にみな出羽(秋田)に連れていてしまったそうです。その後常陸を治めることになった御三家の徳川頼房が美女を返せと文句を言ったとか、
ちなみに日本海側の女性は積雪が多く家にこもりがちになるため肌が白く美人に見えるという説もあるそうです。